お墓に意味を感じない

お墓の維持が問題だ、と感じる理由の一つが「お墓に納骨して伝えていく意味」に人々が疑問符をつけ始めていることがあります。結婚式がそうであるように儀礼も、充分な価値が感じられ、費用がリーズナブルであれば、引き継がれていくものです。しかし、お墓に関しては費用の面もさることながら、「こんなものいらない」と感じられるほど、その価値が感じられなくなっているのです。

宗教(仏教)の地盤沈下

お寺とはかかわりたくない・意味がない

「人が亡くなったらお坊さんにお経をあげてもらう。初七日、二七日…と法要をし、七七日(49日)で成仏して仏さんになり、裏の里山から私たちを見守ってくれる…。お盆にはご先祖様は家に帰って来る…。」
伝統的な日本人の「人は死んだらどこに行くの」という問いに対する答えがこのような感じでしょうか。しかし、今、これを心から信じている人がどのくらいいるでしょうか。
戦後の大きな社会の変化の中で、葬送に関する儀礼はますます形だけものになって来ています。実際、「遺族や参列者の利便性を考えて」という名のもとに、今日の葬儀では、初七日を葬儀と一緒にするのは当たり前、場合によっては49日法要までも前倒しで行ってしまうことがあるほどです。「やらなければいけない」儀礼のために行われる行事により、人々の心はますます宗教的な儀礼から遠ざかって行きます。仏教の心の拠り所としての価値が相当地盤沈下しているといえます。

  • 仏教や寺との接点は葬儀とお墓関連しかない
  • 寺の儀式はルーティーンであって、全く意味がないと感じる
  • 仏教の描く死の世界観に共鳴できない
  • 葬儀、戒名や墓の問題で、「納得できない高額なサービスを売りつけられる」とい悪印象が強い
  • 寺・仏教・僧侶が死という答えの出にくい問いに答えようとしていない
  • 死の意味合いについて押し付けられたくない
  • 自分と死者との関係を寺に取り持ってもらう必要はない。宗教に間に入ってもらいたくない。

団塊の世代が変化をリード

こういった価値観の変化をリードしているのが、戦後に生まれ,高度経済成長期を経験し,変化する価値観の中で生きてきた団塊の世代です。団塊世代は,学生運動を経験した世代でもあり、「本当にこれでいいのか」と既存の価値観に疑問符を突き付けてきた世代で、完全に「宗教離れ」した世代と見なすことが出来ます。

いま、この団塊の世代がその親を看取りつつあります。この世代の人々にとって、宗教儀礼は「それに何の意味があるのか納得できない」「なぜそこまで費用や時間をかけてするのか説明が出来ない」過去の価値観の典型的なものです。団塊の世代の人々は、実際自分が葬儀や墓問題の当事者になることで、既存の宗教儀礼に関する不信感を募らせており、実際に葬儀や墓への見直しを進めています。

変わりつつある故人との絆

家としての弔いから個人としての弔いへ

「継ぐ人がいない」の「家族・先祖の概念の変化 」で詳しく見たように、現代では、家として先祖を祀るというのは一般的な感覚と会わなくなってきているようです。これは嘆くべき変化でしょうか。わたしはそうは思いません。家墓、仏壇のご本尊、お寺の法事には心は動かなくとも、亡くなった人への祈りの気持ちは変わりません。2010年の第一生命の調査では78%の人が「先祖は私たちを見守っている」と感じており、お墓に行って話かけたりとか、手を合わせたり、といったことは今なお続いています。

変わってきているのは、それが、先祖代々に手を合わせる「家としての行事」から、特定の故人(両親や伴侶)に会いに行っている「個人としての再会」に変化している、ということなのです。先祖信仰とは関係なく、故人を想う気持ちのよりどころが求められていることも事実です。

自分で「死の意味」と「新しい供養の形」を探さなければいけない

同時に、宗教による強い「死生観に関する指針」が無い事から、 現代の日本人は「人は死んだらどこに行くのか」「またいつか会えるのか」といった非常に難しい問題に「自分で答えを見つけなければいけない」状態に置かれているといえます。
これは確かに難しいタスクですが、逆に、「自分と家族が納得する形であれば、弔いの形式にはこだわらない」という傾向が出てきます。最近、本来仏壇の核心部分を構成するはずのご本尊が無い仏壇がたくさん販売されています。必要とされているのは手を合わせる「祈りの場」であって、本尊ではないのです。従来型の宗教施設(家墓)が「家」としての弔いの象徴であったとすれば、現代では個人として納得の出来るの弔いをする人が増えています。
現代人が求めているのは「立派な葬儀」や「正しい法要の仕方」や「いい戒名」や「高い墓石」ではなく、自分が納得して故人と繋がっていると感じられる供養の仕方であるといえるのです。

敬意を払ったお骨の行先を必要としている

故人とのつながりを考えるときに重要となるのが遺骨です。亡くなった人の最後の物質的な存在である遺骨は、故人の存在の象徴として、非常に大切にされ、また、人々の気持ちがそこに向かうことも失われていません(「お骨にこだわる:魂魄思想」をご覧ください)。お骨は大切に扱いたい、だけれども、その大切に思う気持ちに、今まで媒介となってきたお寺はもう必要ない、と感じる人が増えてきているのだと思います。

葬儀や墓の本質は亡くなった人への追悼と弔いにあります。儀式や形式には意味を見いだせないとしても、その弔いの心が亡くなってしまったわけではないのです。同様に、お骨の最終的な行き場も、仏教的である必要は全くなく、敬意を払った方法で扱われれば、それで納得が出来る、と感じる人が多くなっています。

従来型のお墓に意味を感じない方の選択肢

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